『育ちが分かる』とは、言い換えると『どの程度の教育を受けて育ったか』でということではないでしょうか。つまり、育ちがいい人は親からしっかりと教育を受け、育ちが悪い人はその逆であると思います。
学校へ行き授業を受ける。そんなことは当たり前のことなので、育ちの良し悪しには関係ありません。あくまでも親子間での教育の話です。
「この親にしてこの子あり」のことわざがあるように、親がしっかりしていればその親から教育を受けた子も当然しっかりしていると考えるのは当然のことです。もちろん例外はありますが、この子と仲良くしたい、この子とは関わりたくないの判断材料の一つとなりうるため、これから子育てをする人は親子間における教育とは何かを今一度考え直してほしいものです。
というわけで私が考える『育ちが分かる4つの要素』とは、
- 挨拶ができる
- 時間を守る
- 箸を正しく持てる
- 字が丁寧
で、ある程度は判断できると思います。
親が子に愛情を注いで教育することで、子は健全に成長していきます。それは言い換えると家庭環境が良いということでもあり、上記4つの要素なんて当然のように行えるようになると思うのです。
『育ちの良し悪し』は親が子のため、そして子の将来のためにどの程度の教育を行ったかという判断材料となりうる
挨拶ができる
挨拶をされたら挨拶を返すけど、自分から挨拶することなんて滅多にないというスタイルで生きてきた人もいることでしょう。しかし、挨拶は日常生活で人間関係を円滑に運ぶために重要なことです。あまり親しくない相手や苦手な相手にはしづらい気持ちがあると思いますが、それでも社会生活においては関わらざるを得ない場面は幾度となく訪れます。
挨拶一つで互いの関係をグッと近づけることもありますが、人間関係を円滑にするために、などという思惑なく誰にでも当然のよう挨拶できる人は、まさにいい教育を受けてきたからこそだと思います。だからこそ挨拶できる人は育ちがいいと言い切れます。
挨拶されて嫌な気分になることはそうそうありません。あまりにも距離が近い人に対しては身構えることがあるかもしれませんが、悪意を持って距離を詰めてくる人なんてごく一握りだと誰しもがわかっています。だからこそ他人から挨拶されてから返事を返すのではなく、自らが率先して挨拶するように心掛けましょう。年下だからだとか嫌いだからだとかを考えず、いつどんな状況においても自分から進んで挨拶をすることが望ましいです。そういう人にはピンチのときに助けてくれる仲間が集まってきます。社会生活においてこれほど心強いことはありません。
あまりにも大きな声で挨拶すると相手を驚かせてしまうこともあるでしょう。ですが、小さい声だと「あれ?なんか聞こえたな。」「誰かに話しかけられたかな?」と思われてしまい、せっかくの挨拶が相手に届かない可能性があります。そうならないためには相手の目を見て挨拶することで対処できます。
必ず挨拶するタイミングは日常生活でそこら中にありますので、初めのうちは意識しながら挨拶をしてみてはいかがでしょうか。そうすればいずれ自然と挨拶することができる人になれるはずです。
時間を守る
「時は金なり」ということわざがありますが、これは時間はお金と同様に貴重なものであると言う意味です。そういう意味では、時間を守れない人は相手の財産を奪っているということでもあります。ですから時間を守らないという行為は、相手の迷惑になっているということを自覚してほしいものです。ですが、自覚がないのも罪ですからね。そこんとこ是非とも弁えてもらいたいです。
時間にルーズな人は本当に嫌いです。例えば約束の時間に遅れそうになった場合でも、その約束の時間になる前に遅れる連絡ができる人はまだマシです。しかしその連絡すらも出来ない人が一定数存在しますが、私には理解できません。人の時間を奪っておいて、よくもまあそんな行動ができるなと思います。
社会人になれば遅刻はご法度です。普段遅刻しない人が極稀に遅刻することはありますが、そういう人に対したは、まぁたまにはね。と思いますけど、普段から遅刻グセのある人はどういう心境なのでしょうか。そんな人は尊敬できませんし信用もできません。友達だろうが家族だろうが時間が守れない人は信頼にすら値しません。
幼少期から遅刻グセがある人はもう目も当てられません。そこは親が教育するべきなんですけど、教育できてないということは育ちが悪いということです。結局の所、こういう人達は親にしろ子にしろ嫌な事や面倒な事を先延ばしにしてるだけですよね。そうやって生きてきて先延ばし癖が身に染み付いちゃってるんだと私は思います。
箸を正しく持てる
箸を正しく持つということに関して賛否があるのはわかります。正しいとは何かを突き詰めるとマナーとは何かということにもなります。昔誰かがビジネスとして正しい箸の持ち方を考えマナーとして伝えただけ、もしくは文化の中で自然とそうなっていっただけの可能性もあります。
どういう根拠で正しいのかと問えば、取って付けたような御託を並べるだけのマナーもあるのは承知しています。そう考えると箸が正しく持てるからといってそれがどうしたという話にもなるでしょう。
実際私もそういう考えで生きてきましたが、大人になるにつれ考えが変化していきました。
やはり、箸を正しく持てない姿は不格好に見えます。たとえそれがどんなに地位の高い人でも、食事している姿に何か違和感を覚えるのです。そして次第に自分の箸が正しく持てないことにも恥じるようにもなりました。
そこで、箸の持ち方を改善しようと思ったわけですが、さあ改善しようと思ったところでそう簡単には行きませんでした。結果的に、箸の持ち方を改善し、自然と使いこなすことができるようになるまでに半年の月日を費やしました。これまでは食事中に小指が疲れることがあったのですが、正しい箸の持ち方を覚えた今、そのようなことはなくなりました。そしてこう思ったわけです。正しい箸の持ち方というは理にかなっているのではないかと。
残念ながら、改善してからモテるようになっただとか人脈が広がったなんて事は一切ありませんが、自己満足として直して良かったと思っています。
さて無駄話はさておき、正しく箸を持てない人を悪い目で見る人が一定数存在するわけで、それこそ育ちが悪い、教養がない、躾がなっていないなどと考える人も当然いるわけです。
箸の持ち方でとやかく言う人なんかこっちから願い下げだと思うかもしれませんし、気にしなければいいだけだとの意見もありますが、やはりタトゥーと同じでそういったイメージが文化として根強く定着している事実を受け止めなければなりません。印象ひとつ変わるだけで育ち云々だけでなく、いい人悪い人などの先入観も生まれますから、教育する者、教育を受ける者共に箸の持ち方に注意を払うべきではないでしょうか。
字が丁寧
イメージだけで物事を語ると、字が丁寧な人は賢そうだとか真面目そうだとかの好印象を与える場合が多いです。男性目線で考えると、女性が達筆だった場合は頭が良く優秀そうなイメージを持ちますし、丸っこい字を書く場合は可愛らしい印象やアホっぽい印象を持つこともあります。逆に、字が汚いと頭が悪そうだとか部屋が汚そう、ガサツそうなどのマイナスなイメージが先行しがちです。その結果、育ち云々のイメージもついて回ります。
ただ、ここでいう『字が丁寧』とは綺麗さや美しさを求めているわけではありません。言いたいことはいかに丁寧に書いたかということです。丁寧に書いたか雑に書いたかなんてパット見でも判断できます。物事を丁寧に取り組む人は信頼できるわけで、字が丁寧=信頼できる人という思考が生まれてもおかしくありません。安直に見えるかもしれませんが、イメージとはそういうものです。たかだか書いた字だけでも人となりの判断材料となるわけです。
ただ、偉人の中にはとても賢いにのもかかわらず字が汚いことで有名な人がいます。字が汚く本人すらも何を書いたかわからないほどの字です。そういう人は実績があるため、すごい人のイメージで語られることになります。当時は周囲からどういうイメージを持たれていたのかわわかりませんが、自分の字も読めないなんて変人に思われていたとしてもおかしくありません。
字が丁寧だからといって褒められることはあまりありませんが、字が汚くて褒められることは絶対にありえません。字が汚いよりは綺麗に書けたほうが当然良いわけで親の責務として、子の幼少期のうちから教育することが重要です。